ご無沙汰の間に仕事を辞めたり
バイク盗まれたり出てきたり
人生考えたりなんか悟ったり
車の中で1週間生活してみたり
なんだかまぁ色々なことがあったんですが
それはそれとして。
文化人始めました。
もともと文化人なんだけどね。
あえて宣言しておこうというわけです。
豊かな生き方の為に。
(なにやら書いて見たのですが無駄に難解なので略)
…難しいことを難しく言ってしまうのは非文化的だなあ。
まとめ。もともと文化人なんだけども、
それをうまく表現できないので。
ブログを書くことでその練習でもしてみようかなと思うわけです。
時間に余裕のある無職にもなったことだしね。(笑)
以上。
400ccのスポーツバイクの中では珍しい二気筒エンジン。
私は残念ながら乗ったことがないんだが、だからだろうか。このバイクに対し、もう何年も前から憧れに似た気持ちを抱いている。
ネイキッドブームの90年代半ば、色々なバイクがスポーツを謳ってはいたが、400ccのバイクの中にスポーツバイクは存在しなかった。
レプリカバイクが消え、それはダサいものになった。
真実なんていうものは存在しない。
あるのは事実だけ。
そこから何を読み取るなんて、
それぞれがそれぞれ、自分に都合のいい部分を
自分に都合よく、または自分に優しく受け取るだけさ。
こないだテレビでやってたよ。
沖縄の集団自決に軍の強制があったかなかったか、とか。
んなもん、今更わかるわけないじゃん。
当時の人の言葉だって、真実・事実と100%受け止めるのは危険だ。
人は上手に自分を騙してしまうから。
記憶ってのは、何かが起こったその瞬間、
体験が記憶に変わったその瞬間から絶えず
情報の劣化を起し続ける。
本当にそうだったっけ?
繰り返し自分に問うほどその真偽はあやふやになってくる。
だから、そうだったよね?って
他人に同意を得ることで、あやふやな記憶に
自信を付けていく。
他人の記憶だって、当人と同様に劣化していくのに。
意味がないとは言わない。
ただ、それは重要な参考になるだけで、
真実という証拠は何もないってことが言いたいんだ。
年金の問題だってそう。
正しい「事実」がわかんなくなっちゃった時点で
事実の復元なんて無理。
それを、絶対に調査します、なんて言う。
できるわけないってわかってんじゃん。
行政も、国民も。
そうして結局、なぁなぁのあやふやで、
人の関心が薄れたあたりで無事決着、ってことになる。
そして、記憶や体験を伝えるために使う「言葉」って
コミュニケーションツール。
表現の方法は多種多様、そして同様に表現された文章に
対して、各自が受け取る反応も多種多様。
本当のことを伝えるっていうのは難しい。
それでも事実の伝達はまだ簡単だ。
いつ・誰が・何を・どうして・どうなった
それをまとめれば何があったかは
伝えることができる。
でも、こう感じたんだよっていうような気持ちを
伝えることは、事実の伝達より格段に難しい。
ものの感じ方なんて人それぞれだ。
あるものを見て「美しい」と感じる人もいれば「素晴らしい」と感じる人もいる。
そして「美しい」と感じた人の中でも皆が同様の感情を覚えているわけではないだろう。
「美しい」と感じた人と「素晴らしい」と感じた人が同様の感情を抱いた可能性もあるだろう。
そして、前述の記憶の劣化によって、
はじめてそれを見たときの気持ちは最終的に
誰にもわからなくなってしまう。
つまり、ここでも後に残るのは事実であって、
真実は残らない、わからないということ。
言葉は真実を伝えない。伝えられない。
ひょっとしたら真実を伝えられるのは音楽かもしれない。
言葉には変換不能な何かしらの感情を。
例えばそれは。
弦楽の音階から感傷を。
音階と音階の合間に優しさを。
言葉に変換できないからこそ、
何かしらの感情を人に伝えることができるのかもしれない。
何故言葉はこうも不完全なのか。
それはきっと、あやふやでグレーなものであるからこそ
人はそのグレーな部分を自分に都合よく受け取ることができ、
また、自分に優しい何かを埋め込むことができ、
その中で誤魔化し誤魔化し生きていけるからではないか。
言葉が不完全だからこそ、
人は孤独という鎧で自らを守ることもできるのではないか。
私はそう思う。
そして。
これだけ言葉の不完全を思い、
真実なんて存在しないと思う私だが、
これだけは真実だと言える言葉がある。
君が幸せでありますように。
心からそう願っています。